美の脇役 一五
清涼殿 櫛形の窓
 簡素な実用の造形  

 平安京における天皇の住居たる皇居は内裏(だいり)といわれたが、火災、兵乱などのさいには臨時に市街地の公卿(くげ)や大臣などの邸宅に移り仮の皇居とされることが多かった。いわく土御門殿、閑院殿、宮小路殿、三条殿等々数多いが、実は現在の京都御所はその里内裏(さとだいり)の一つである東洞院土御門殿(ひがしのとういんつちみかどでん)の発達したものであって、南北朝のはじめごろ約六百三十年前にこの場所に定まったものである。  しかしここが正統な皇居となったのは南北朝統一の第百代後小松天皇以後であるといえる。その後いくどとなく焼けては再建されてきたが、そのつどの修補、改修にとどまり、それは平安朝大内裡の中の皇居と趣の変わった形で江戸時代に及んだ。光格天皇の御代になり古典研究の隆盛に伴い、寛政年間に裏松固禅の不朽の名著「大内裏図考証」を参考とし松平定信の総指揮のもとに、古制に忠実に平安朝の内裏の姿を復元したのがただいまの御所である。もっともその後安政年間に炎上し寛政度の規模によってさらに再建された。  この京都御所のなかの、平安朝における天皇の日常の住居であった清涼殿の母屋(おもや)の西南

隅と鬼の間の東南隅と殿上(でんじょう)の間の北側西隅境の白壁につくられた半月形の高窓が櫛形(くしがた)の窓である。窓といえばへやと外部との流通口であるわけだが、櫛形の窓は母屋(天皇の御座所)や鬼の間(女官の詰め所)から、殿上の間すなわち側近の事務をとるへやをのぞきみることができるように作られた特殊な高窓である。  徒然草第三十三段「今の内裏作り出されて有職(ゆうそく)の人々に見せられけるにいずくも難なしとてすでに遷幸の日ちかくなりけるに玄輝門院御覧(ろう)じて 閑院殿のくしがたの穴はまろく、ふちもなくてぞありし≠ニ仰せられる」うんぬんとあり、櫛形の窓のことは古くから話題になっていたようである。 これは約六百四十五年前にできた富小路内裏=二条富小路=が落成しておかえりも近くなったある日、有職故実に通じられた後深草天皇の妃(きさき)玄輝門院が御覧になって、 有名な閑院内裏=二条西洞院=の櫛形の窓のことをよく知っておられて丸いふちなしのものに作りかえられたことをしるしたものである。簡素ななかにも実用に適した高窓ではある。 (一九六一年?月?日 新聞の切抜き記事より)  
 (石川忠・宮内庁京都事務所長)