古代仏像のきた道 四
久野 健
白鳳時代は遺唐使と 朝鮮半島の二コース
飛鳥時代につぐ白鳳時代になると、仏像は二つの経路から日本にはいってきた。一つは唐から直接わが国に入ってくるコースと、前代同様の朝鮮半島から渡ってくるコースの二つである。前者は、欽明朝以来行われている遺唐使と共に中国に渡った学問僧や技術者が大陸から持ち帰るケースである。白鳳時代にどれだけ唐の文物がわが国にはいってきたかを明瞭(めいりょう)に示す文献や遺品は少ないが、奈良・薬師寺の仏足石の図様を唐の都長安の普光寺から写し持ち帰った黄文本実などはその一例である。
この仏足石図は、唐の王玄策がインドから写してきたもので、さらにそれを本実が転写したことが銘文か分かる。本実の帰国の年代ははっきりしないが、日本書紀には、かれが天智十年(六七一)に朝廷に水杲(みずばかり・水準器)を献じたとあることから、おおよその年代が推定できる。また黄文本実は、黄文画師の一族と考えられ、あるいは、唐の仏画等も写し帰った可能性があり、法隆寺壁画の原図もかれの請来本をもといした可能性なども考えられている。この他にも白鳳時代に数回派遺された遺唐船による唐文物の輸入が、白鳳文化に与えた影響は大きかったであろう。
二つ目の朝鮮からの新様式、新技術の伝来は、百済及び高句麗の滅亡と関係が深い。白鳳時代の前半期にあたる天智朝に新羅と唐の連合軍により、まず百済が滅び、あいついで高句麗が滅亡するが、この前後に両国から多数の人々が日本に集団的に亡命してきた。この中には、仏像制作の技術者も混じっていたことは、後に東大寺の大仏像の制作に成功した国中公麻呂の祖父、国骨富も百済からの亡命民の中にいたことからも推定できる。
百済や高句麗からわが国に亡命してきた技術者は、それぞれ故国において習得した技術を駆使して美術工芸品の制作にあたったと思われるが、中には中国の新様をとりいれたもの、また旧様の仏像様式を守りつづける者等さまざまであったろう。白鳳時代の仏像をみると古様な像と新様の仏像とがいりまじっており、きわめて複雑な様相を呈している。
そのため、以前から白鳳時代という時代区分は、美術史の上でも必要ないのではないかと主張する学説がある。この時代の前半、天智朝までを飛鳥時代に含め、白鳳後半期である天武朝以後を次の天平時代に含めた方がよいのではないかとする白鳳時代抹殺論や、その前半期を飛鳥後期とし、白鳳時代を天武朝から文武朝までとする説などがとなえられている。
しかし私は、白鳳時代の前半期から飛鳥時代とは違った世界が開かれると考えており、大化改新以後を白鳳時代と呼んでいる。すでに、白鳳時代前半期の寺院跡から出土する?仏(せんぶつ)には、唐の影響があらわれているし、白鳳前半期の制作と考えられる如来像には、飛鳥時代とは違った服制のものが出現する。奈良・法輪寺の薬師如来像等がそれである。
この像の大衣のつけ方は、一見止利仏師作の法隆寺の釈迦像と同じようにみえるが、実は大変違っている。大衣をつけた右肩の部分をみると、大衣の下にもう一枚別の布をつけている。「僧史略」という本をみると、これは偏衫(へんざん)と呼ぶもので、北魏の後半期に考案された僧衣の一つであると記されている。
それには「北魏の宮廷に出入りする僧は、偏袒右肩に衣をつけていたが、この衣のつけ方だと、右肩が露出してしまう。この姿を醜いと考えた宮人が僧に一枚の布を与え、露わになった右肩をかくさせた。これを偏衫という」と記されている。これが間もなく仏像にも応用され、竜門石窟賓陽中洞の本尊等も、この服制につくられている。
偏衫をつけた仏像の形式は、それ以後随・唐まで続き、この形式が白鳳時代前半期にわが国にはいってきたことを、法輪寺の薬師如来像は語っている。この像の他にも四十八体仏中の山田殿像の刻銘のある阿弥陀像や法隆寺の橘夫人厨子の阿弥陀像等にも偏衫をつけている。従来、諸書に竜門賓陽中洞の本尊を飛鳥仏の源流と書いたものが多いが、こうした点からも再考すべきものであろう。中国や韓国において新しく発見された仏像は、日本の古代仏の源流とその道すじについて以上のような新しい事実をわれわれに語りかけてきている。
(仏教美術研究所長)
(おわり)
昭和五七年(一九八二)九月十日 の新聞記事より