古代仏像のきた道 三

久野 健

渡来人や子孫が制作者  不合理な着衣法の像も

 わが国初期の仏像の制作者も、大部分大陸から来た渡来人及びその子孫である。ただそれらの人々の渡来経路は必ずしも明らかではない。飛鳥時代は、古い割には、仏像制作者、すなわち仏師の名が伝わっている。法隆寺金堂中ノ間の本尊釈迦三尊像を制作した鞍作首止利及び同寺の四天王像の作者の一人である山口大口費等がそれである。  止利仏師は、継体朝に渡来した鞍部司馬達等の孫にあたる。達等は、南梁から日本に渡ってきたと文献には記されているが、梁を南梁と呼ぶことは少なく、中国系の渡来人かと推定されているにすぎない。しかし、これにも異説がある。一九七一年にわが国に仏教を伝えた百済の聖明王の父にあたる武寧王の陵が偶然のことから発見された。稜の玄室からは、おびただしい金銀の装身具類が出土したが、その中の銀製の釧(くしろ)に多利作という製作者の名を刻んだものがあり、多利は、止利に通じるところから、韓国の学者は、止利の出自をこの多利の属していた百済の工匠家系から出た後裔(こうえい)ではないかと推定している。止利一族もはじめはその名が示す通り、馬の鞍(くら)等の製作に従事していたが、推古朝になり、仏像の需要がふえてくると、それまでの技術を活用して仏像の制作も手がけるようになったと考えられる。  止利も達等から数えて三代目であるが、山口大口費の方は、さらに古くに渡来した阿知使主の子孫といわれる東漢直の出である。阿知使主は後漢の霊帝の曾孫(そうそん)と伝えられ、この一族は大和高市郡に本拠をおき、五世紀後半頃から文筆や美術工芸品の制作に従事するものが多くあらわれた。それ故、止利仏師も山口大口費も日本に住みついてから長い時間を経過しており、自らその制作する仏像も大陸の仏像とは違ったわが国の好みが出てきているのは当然である。古代朝鮮仏が中国仏に比べ、のびやかな作風に作られているのに対し、日本の初期の仏像は、緊張感にみちあふれ、細かな神経が像のすみずみまでゆきわたっているのは、このためであろう。  
 

 飛鳥時代の仏師は、大陸から渡ってきた小仏像を手本にし、それをひき伸ばして大きな仏像を制作することが多かったと思われるが、渡来物の中には背面などを全く省略したものもあり、こうした点で苦労することが多かったのであろう。例えば、止利仏師が推古三一年(六二三)に聖徳太子の冥福を祈って制作した先の法隆寺の本尊釈迦如来の大衣のつけ方などがそれである。  これは水野敬三郎氏により指摘されたものであるが、古代中国や朝鮮の仏像は大部分大衣のつけ方が理にかなっている。下着の僧祇支(そうぎし)と裙(くん)をつけ、大衣をまず左腕と左肩につけ、それを背中にまわし、右肩と右腕をおおって腹前を通り、左腕に衣端をかけておわらせるか、あるいは左肩に衣端をかけている。この左肩にかけて終わる場合は、襟(えり)のところが二重になるのが普通であるが、止利仏師の釈迦像では、左腕に衣端をかけているかにみえて、右肩にも衣端をたらしている。これだと大衣が二枚必要になるが、恐らく、これは止利が、実際の大衣のつけ方がわからず、かかる無理を生じたものであろう。止利工房ないし、その親近の工房で制作されたと考えられる止利派に属する如来像は、いずれもこの不合理な着衣法をとっている。これもまた渡来仏と日本で制作された仏像とを区別するポイントとなっている。  ここで思い出されるのは、飛鳥寺の釈迦如来像である。この像も日本書紀では、止利の制作と記されているが、この釈迦像の方は、後補部分が多いとはいえ、大衣の着け方は、理にかなっている。飛鳥大仏は、元興寺縁起の記事から推古一七年(六〇九)ごろに制作された仏像と考えられるが、もしこの像も止利の作だとすると、初めに制作した仏像の服制が理にかなっており、それより十数年後に作った法隆寺の釈迦如来像の方が、着衣法が分からなくなってしまったという矛盾があり、私は飛鳥大仏の作者は、止利より後に渡来してきた工人の作ではないかと考えている。              
                           (仏教美術研究所長)

             昭和五七年(一九八二)九月九日 の新聞記事より