古代仏像のきた道 二

久野 健

南済から梁、百済、日本  作風、服制で源流追求

 わが国の初期の仏像は、渡来人たちと共に伝わってきた渡来仏や百済からおくられてきた仏像を手本にして制作がはじまった。日本の最初の本格的寺院である飛鳥寺を蘇我馬子が建立した時にも、百済から金工や建築家、瓦(かわら)製作者等の技術者を招いていることはよく知られている。飛鳥時代の仏像は、文献からみても、百済と密接な関係にあることは疑いない。ところが、法隆寺に伝わった飛鳥時代の仏像は多いが、先の飛鳥寺の釈迦如来像など初期の仏像をみると、その作風や衣のつけ方等は、中国の北魏時代の仏像に近いことが分かる。北魏の古都大同の近くに造営された雲崗石窟の後期の仏像や、洛陽の郊外にほられた竜門石窟の初期の仏像と共通した作風形式を示している。  その特徴の一つは、仏像の服装である。飛鳥仏は、僧祇支(そうぎし)とよぶ下着をつけ、その上を大衣(たいえ)でおおった特異な服制をしている。この仏像の形式は、インドやアフガニスタン、西域等の仏像にもみられず、先の雲崗石窟後期の仏像にはじめて現れてくる。そのため長広俊雄氏により、この服制は北魏の皇帝の服装を仏像に応用したものではないかという学説がとなえられたほど中国的な服制である。そこで、これまでの仏像関係の書物や日本史の教科書には、日本の飛鳥時代の仏像の源流は、中国の北魏時代の仏像に求められると書いたものが多い。私自身も、むかし書いた仏像の概説書には、同様の趣旨のことを述べたが、現在は多少違っている。これは、戦後中国や韓国から新しい仏像が発見され、旧説に反省が加えられたためであ 

 日本の飛鳥仏に大きな影響を及ぼした百済という国は、伝統的に、中国の南朝、すなわち南済や梁という国々と文化交流が多かった。百済の初期の寺の造営や仏像の制作には、梁の技術者を招いて制作されたことも文献により分かっている。また百済が僧や使者を派遺した回数も南済に六回、梁に五回なのに対し、北魏には一回しか派遺していない。これに対し、半島の北の高句麗は、北魏に八十六回も使者を送り、高句麗の文化が、北魏の影響を強くうけていることが分かる。それ故、日本の初期の仏像が、北魏系だとすれば、当然、北魏の仏像様式が高句麗に伝わり、その影響を百済が受け、それが日本に渡ってきたと考えざるを得ない。ところが、六世紀から、七世紀前半にかけて百済と高句麗は、対立関係にあり、それほど文化交流が盛んだったとは考えにくい。  それでは、何故、飛鳥時代の仏像は北魏式なのか。これは長いこと古代仏像を研究する者の疑問であった。それは、北魏及びそれにつづく東西魏や北斉、北周という北朝系の仏像の遺品が沢山に残っているのに対し、南斉や梁、陳という南朝系の仏像の遺品がほとんど残っていないという点にあった。  ところが、戦後になり、中国の四川省の茂県というところから南済の永明元年(四八三)の銘をもつ仏像が発見され、また四川省の成都万仏寺からも、梁の普通四年(五二三)中大通五年(五三三)等の年号をもつ石像が多数紹介され、南朝の仏像というのが次第に分かってきた。これらの仏像をみると、いずれも如来像は、先に記した飛鳥仏と同様僧祇支と裙(くん)を下着につけ、大衣で両肩をふかぶかとおおう服制をしているのである。  思うにこの特異な服制は、従来考えられていたような北魏にはじまるものではなく、南斉で考案され、それが北魏にも影響を及ぼしたものではないだろうか。その後百済の故地である瑞山や泰安からも同服制の如来像の石仏が発見され、いよいよ飛鳥仏の源流が、南斉や梁時代の仏像にあるらしいことが推定されるようになった。つまり、従来、北魏―高句麗―百済―日本というように考えられていた古代仏像の道すじに対し、南斉―梁―百済―日本というコースが正しいのではないだろうか。                    (仏教美術研究所長)
             昭和五七年(一九八二)九月八日 の新聞記事より