韓国の前方後円墳 四
ほかにも発見の可能性
考えにくい任那問題との関連 森 浩一
姜教授は、固城の松鶴洞古墳のほか、咸安や高霊などにある約十基の古墳も前方後円墳とみておられる。今回、その大部分を姜教授の案内で検討したが、前方部に当たる部分は盛土ではなく、自然の地形のままであるため判定は将来にのこる。それらは従来からも知られている全羅南道の潘南面にある一古墳や大邱市郊外の鳩岩洞古墳群のうちの一基などとともに前方後円墳の候補≠ナある。 だがとにかく姜教授の指摘によって、一基とはいえ確実な前方後円墳が朝鮮半島にあったことは、考古学や古代史にとって画期的な発見といってよかろう。

十一年前のことだが、奈良県明日香村の高松塚で人物や四神などの壁画があらわれ、そこに描かれた男女の服装が高句麗風であったり中国(隋・唐)的であった。そのとき、どうして日本のなかに大陸的な服装があるのか≠日本人は不思議におもい、研究者も市民もそれぞれの頭脳を働かせた。今回は、ずっと日本の代表的な造形物だと信じていた前方後円墳が、海をこえた大陸の一角にあった。つまり高松塚の壁画に接したときとは逆に、外にひろげて問題を解くことにせまられているのである。 だれしもおもいつくのは、前方後円墳の起源が日本列島ではなく、大陸、とくに朝鮮半島にあったのではないかとする問題の解き方であって、姜教授もそのように考えておられる。 この場合、松鶴洞古墳がすべての日本の前方後円墳よりも年代がさかのぼるとみるのはおそらく困難であるが、何か一つ発見されると次々に例が増えるのは、考古学にはよくあることである。
それは、ここ三十年来の旧石器時代遺跡や弥生時代の方形周溝墳の相次ぐ発見などをおもいうかべると充分である。つまりそれらは戦前には知られていなかったものである。したがって、松鶴洞古墳の再認識によって、さらにより古い前方後円墳が韓国で見つかる可能性はあるし、そうなると、日本の前方後円墳の起源についても考え直す必要になる。
ただし私の予測にすぎないが、今後続々と見つかることはなかろう。
というのは、四世紀でも六世紀でも、朝鮮半島には日本の古墳とはもちろん共通している点もあるが、たいへん違った点のあるものが、いくらもあるからである。
現在使われている高校の日本史の教科書に任那(みまな)がでている。その個所をみると大和朝廷は四世紀後半から五世紀初めにかけて、すすんだ生産技術や鉄資源を獲得するために朝鮮半島に進出し、まだ小国家郡のままの状態であった半島南部の弁韓諸国をその勢力下におさめた。これが任那である(詳説日本史、山川出版社)
私などは日本書紀から推論されている任那問題、いいかえると大和朝廷の朝鮮半島への進出(ここでの進出とは、軍事支配、政治支配のこと) ≠考古学資料、つまり遺跡や遺物からは証明しにくいという立場をとっていた。だから松鶴洞古墳の存在によって、前方後円墳が一基でもあったことは任那問題についての有力な考古学資料になるのではないか≠ニ考える人も多いとおもうし、実際その可能性は否定できない。
だがすでに説明したように、固城は中世に倭の漁船が常時往来していたところ、別の表現をすると日本人の商人や漁民が住んでいたとしても一向不思議ではない土地柄である。それにこれもすでに倭人伝の文章を引用したが、対馬や壱岐の人たちが三世紀ごろに、船に乗って南北に交易していた。対馬から北への交易なら固城など朝鮮半島南部が対象となり、固城の東外洞貝塚出土の大きな銅矛(どうほこ)についても対馬の航海集団特有の祭器とみる説もある。
このように従来どおり前方後円墳を古代日本の代表的造形物とみるとしても、前方後円墳が大和朝廷の勢力下においてだけ築かれたとか、もっと強くいえば大和朝廷から許されることを前提として各地に前方後円墳ができたとは私は考えていない。それよりも有力な漁民や商人の活躍をも含め、実際の古代における日本と朝鮮半島との交流がより鮮明になってきつつあるのを感じる。
(同志社大学教授・考古学)
(おわり)