韓国の前方後円墳 三
頂上に石材、周囲に陪墳
 明白な盛土による埋葬施設    森 浩一
 

 固城はかっては古自といった。また『日本書紀』にでている古嵯とか古磋の地をそこにあてる説がある。李朝時代に作られた『大東地志』 (私は忠南大学校百済研究所刊行本を利用している)の固城の個所を見ると、たくさんの島の説明のなかの蓮華島の項には千辰(じんしん)の倭乱(文禄・慶長の役)以前に倭人の漁 ?(ぎょこう・漁船のこと)常時往来す≠ニあって、北九州方面から船の行きやすい場所であったらしい。私の固城についての予備知識はそれぐらいしかない。  地図をみて港町という先入観のあった固城は、町の南方に漁港はあるものの、むしろ周囲を山で囲まれた小盆地というのが第一印象であった。車が南へ南へと道を進み、近年まで湿地帯であったと推定される新しく区画された水田にさしかかると、盆地の中央に小じんまりとした岡があって、古墳がその頂に築かれていることはすぐにわかった。 

 見はらしのよい独立の岡にいくつもの古墳があるところはよくあるけれども、一つの岡の頂が一つの古墳で締められている例となると、そう多くはおもい出せなかった。港のすぐ北(当時は古墳の近くまで海が細長く入っていただろう)に町があって、その町が古くからの集落だったことは、考古学で名高い東外洞貝塚の存在からわかる。  この貝塚からは、北九州の弥生遺跡の多い大きな銅矛(どうほこ)が出土している。もちろんその銅矛の製作地の検討は今後にのこるが、固城の歴史的な土地柄を知るうえでは貴重な資料である。

このように、港・町・岡の関係を考えた場合、その岡が町の維持のうえでたいへん重要であるはずであるのに、その頂上部を古墳にしてしまっているのだから、例えばその岡に見はり場を設けるなど、他の目的には利用できないのはいうまでもない。だからこの古墳は、或一時期にこの町や港に勢力をほこった人を葬っていることは十分考えられる。  松鶴洞古墳は、姜教授の測量では、墳丘の長さが六六b、後円部の直径三三b、高さ四・五bで前方部は幅が二四b、前方部は後円部より一・五bほど低く、日本ならさしずめ古式の前方後円墳である。日本でも山の尾根などの自然の地形を利用した前方後円墳の場合は、墳丘とはいえ土を盛っているのではなく、どうして前方後円墳なのかの判定のむつかしいものが少なくないが、松鶴洞古墳の墳丘は土を盛って築かれているのは明らかだから、最初から意図して前方後円形の墓を人工的に創(つく)りだしたことに疑問の余地はない。くどいようだが、たまたま前方後円形の地形があってそれを利用して墓にしたのではなく、ここには一時的にせよ前方後円墳を築くという伝統か文化があったとみてよかろう。  ♀エ激しましたか≠ニ帰国してからよく聞かれるけれども、熊本県や福島県などで前方後円墳を見学するときのように、淡々と検討することができた。よく見ると、後円部の頂上には埋葬施設の一部とみられる石材が露出している。中国や新羅では、概して埋葬個所が深いのに、どうやら後円部でも頂上に近く埋葬用の石室があるらしい。それと片方のくびれ部には、日本なら造出しといいそうな突出部の形跡がある。これはさらに精密な測量をすると、その当否を決めることができるし、それによって発掘しなくても、年代の推定の一助になる可能性がある。  古墳の周囲には、少し離れて、日本の中期古墳のように整然と配置してあるわけではないが、四基の小さな方墳がともなっている。おそらく陪墳(ばいふん)とよんでよかろう。日本では、方墳を陪墳とする前方後円墳となると中期に多いけれども、もちろんこれもさらに検討がいる。だがそのような細かい研究課題はさておき、見事な墳丘だ。″。までどうして前方後円墳だとわからなかったのでしょうか≠ニ姜教授に伝えると、黙ってうなずかれた。
   (同志社大学教授・考古学)

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