韓国の前方後円墳 一
「大陸起源説」大きく前進
固城古墳と姜教授の地道な研究 森 浩一
六月の末、大韓民国の嶺南大学の姜(かん)仁求教授から一通の郵便がとどいた。もう五年にもなるだろうか、同志社大学の考古学研究室に来られ、
日本の前方後円墳、それもよく図録などに航空写真の掲げられている濠(ごう)をめぐらしたような代表的なものについてではなく、
ごくありふれた前方後円墳のことを熱心に質問して帰られた方である。
訪問をうけた日の最初のうちは、それに関心をおもちになっても、おいそれと韓国で見つかるものではないのにと適当にうけ答えしていたが、
次第に私の方が熱気をおび、つい夜遅くまでお引きとめしたあの研究者である。当時はソウルにある国立中央博物館の考古課長の地位におられたが、
二年前から古墳の多い大邸郊外にある嶺南大学に移って、古墳研究に拍車をかけられたのである。
封筒をあけると、『嶺大新聞』が同封されていた。それには一n全体に「咸安・固城地方の前方後円墳発見の意義」と題する論文が掲載されていて、
そこには固城の松鶴洞古墳の墳丘の図もそえられていた。私はだらだらしている夏の日に突然冷たい井戸水を頭からあびたときのように、身がひきしまるおもいとともに、
踊りだしたい衝動にかられ、隣室で読書などしていた学生たちを呼んで、おい、どうや≠ニいった。本当でしょうか≠ニか古そうな形ですね≠フ声とともに
コピーしてもいいですか。訳させて下さい≠ニ二、三人が言った。 私はじっと考えた。前方後円墳が日本の古代の造形物としてこれほど特色のあるものは他に例がないし、
大和というような政治の中心地だけにあるのではなく、南は鹿児島県から北は岩手県・山形県にいたるまでほぼ日本列島全域にひろく分布していて、
日本の古代文化の代表的な文化遺産であることはいうまでもない。ところが日本では前方後円墳の発達や変遷などの研究はすこぶる盛んだが、
その起源となると考古学が盛んだとみられている今日でも、万人を納得させる仮説はまだないと認めざるをえないのである。前方後円墳の起源論がもう一つ進まない原因は、
もちろんそれが墓という性格上、古代人の精神面や信仰にまつわるというむずかしさもさることながら、
日本列島内での発生を前提にしたアプローチが多かったことも関係しているかも知れない。
前方後円墳の起源が日本列島外のいわゆる大陸の地にあるのではないか、と想定する説もないではなかった。
どうも因縁めいているが、私が二度めに韓国を訪れたのは昭和四十七年のことだが、ちょうど釜山についた日の韓国の新聞に、 扶余に前方後円墳様の岡(おか)があるという見出しで、扶余郊外の九竜面の九鳳里のそれが航空写真入で大きく報道された。

これはデンマークの学者ユデ・ラオソン氏などが言いだされたことであって、写真を見ると自然の丘陵のように思えたが、考古学では、現地に臨まないかぎり万が一ということもあるので、直ちに九鳳里へ案内してもらって、そこがまったくの自然の岡で、前方後円墳や前方後方墳はおろか、われわれがいう古墳ではないと判断した。
そのころ、姜さんは国立扶余博物館長であったので、降ってわいたようにおこった前方後円墳問題に否応なしに発言せざるをえない立場におかれた。たいへん皮肉にも、そのときは最有力候補であった九鳳里について現地観察をおこなった結果、人工の盛土をした古墳ではないとされたのであった。当時はまだ私は姜さんと面識はなかったが、期せずして観察結果は同じであった。
すでに百済古墳の研究を進めておられた姜教授が、前方後円墳に関心をもつにいたった動機の一つは、ラオソン氏らの問題提起ではないかと推測する。その意味では、十一年前の前方後円墳騒動も決して無駄ではなかったのである。
森 浩一(もりこういち)
同志社大学教授・考古学。一九二八年大高生まれ。著書に「古墳の発掘」「考古学西から東から」「三世紀の考古学」など。