美の脇役 三三
宇治橋の三ノ間
 川霧にかすむロマン  

 このごろは川霧の面白さとゆかしさを味わう機会が少なくなったことが悲しい。水流の変化か、太陽熱のいたずらからか。  朝まだき、東の山峡から新鮮な朝日子が豊にのぼるころ、潜々と流るる川の面から乳白の霧が立ちはじめて、川原の草々樹々、堤の漠竹雑木を、 ことごとくそのベールの中に包んでしまったものであった。早朝の静寂。  これを見た田舎の児(こ)は、今日は幸多き一日になるそ、とよろこび勇んで、その日の勤めに出かけたものであった。そのよろこびを味わうために、私は、 いまでも、時々、宇治の橋に立って川面を眺めるのである。十度に一度くらいは、宇治の川霧たえだえに、現れたる瀬々の網代木の風情を楽しむことができる。  橋に立って河上をみる。  漫々として河幅一杯に流れ来る水量は、さすがに琵琶の太湖を源に持つだけあって、瑞(み)ずみずしいばかりの豊かさである。 そうした水上を見るときの安心さは、格別である。というのは、ゆるやかな山の背が重なり重なり合える中から、悠々閑々(ゆうゆうかんかん)と、水は湧いて来るかに見えるからである。日本にもまだ水はあると一種の安堵感が胸にこみあげてくる。水だけはまだ十分にのませてもらえる、と。  宇治橋の一大特色は、その一隅に三ノ間と言われる一駒(こま)があって、ここから豊太閤が茶の湯に使用するために宇治の川水をくましめた、 という伝承がある。橋の袂(たもと)の茶舗に、その時に使った釣瓶であるかに古びた桶が置いてある。真偽のほどを問う必要なない。およそ名勝という所には、

いろいろのロマンがつきものであって、それあるがゆえに、かえって天然の風光に深みが増してくるのである。 
  池の面からたち昇る早霧には静かな音がある。 川面に湧きあがる川霧には音がない。ない、ないのではなく、川波の音に消されてしまうのである。  この写真、川霧の音なき中に、三ノ間の木組みの雄渾(ゆうこん)さ。どちらに音があり、とちらに音がないか。耳を澄ませて聞かねかし。        
   (京都女子大教授・中村直勝)