美の脇役 一一
東寺講堂不動像須弥壇
 激情あふれるデザイン

 

 これは古代のアプストラクト彫刻だ。この構造美は現代の機械美をおもわせるではないか。千年以上も前の作品だと知れば、現代人のわたしたちには、 そういう新鮮な驚きがまず先にたつことだろう。  しかし、その驚きと感嘆だけですませるものではない。その上に忿怒(ふんぬ)の形相(ぎょうそう)の不動明王が、静かに、どっしりと座しているのである。  わたしが東寺を訪れたのは、時雨(しぐれ)がさっと広い境内のほこりをしずめたときだった。この明王像をはじめ、二十一体の平安前期の密教仏像が整然とならんだ講堂に足を ふみいれて、神秘の世界の明るさに驚いた。神秘というものには、どこか暗さをおもいがちな先入観は、どうも役にたたない。こんな台座に座しておわすのは、不動さまだけだが、いったいこの構造美が語ろうとしたものは何だろう。

 この八角の台座は、密教では金剛界をあらわしているという。金剛界はダイナミックな構成の世界である。ある高名な哲学者が「物質は激情(インデンシャフト)の世界である」といったが、そんな激情のだろうか。あるいは、これは激情をたたえた世界の静寂であり、 その上に座した不動明王の忿怒は静寂のもつダイナミズムといえるのかもしれない。  ふと、わたしは鈴木大拙博士の夫人ピアとリスさんが、密教に心酔して、その葬送の儀も東寺でとりおこなわれたことを思い出した。宗教哲学の大家ティリッヒ博士の夫人も、 この講堂の密教仏像にいちばん魅力を感じたという。ある日、抱石博士(久松真一氏のこと)が欧米の教養深い婦人は密教仏像のもつ神秘さに傾倒するようですね、とかたられたとき、 なぜだろうと思ったが、この神秘の構造美がたたえた静かな明るさに接したとき、回答らしいものがささやかれていると感じた。これは世界の本質のデザインであろう。(一九六一年?月?日 新聞の切抜き記事より)  
(成安女子短大教授・森滝吉)