美の脇役 一七
四天王寺舞楽の猿面
 おどけて踊る異国調  

 聖徳太子がまだ若かったころ河内の国の亀の瀬を愛馬にまたがり、笛を吹きながら通っていた。するとその妙なる音にひかれて信貴山の山の神が舞い出してきた。 この山の神こそ、実は山猿だった。その姿を天王寺の楽人が舞楽に作ったのが蘇莫者(そまくしゃ)の舞といい、このような伝説に裏づけられた曲として、 天王寺舞楽のうちでも特異なものの一つとなっている。  この舞のコスチュームが一風変っている。真っ黒な漆塗りの面ギョロリと見開いた金色のまなこ、一bもある裏白な長髪は妖気をさえただよわせている。しかし、 ペロリと出した黒い舌がいかにも猿らしく、おどけた仕草で面白い。この面は四天王寺内の装束倉におさめられているが、毎年聖徳太子がなくなられた四月二十二日の 聖霊会(しょうりょうえ)には、大阪雅亮会の人たちが、これをかぶり、背中には栗の葉のついた黄色い編目のミノをつけ、左手に短い木の根を握って、 亀池の石舞台せましと縦横にかけめぐりながら、一日中舞うのである。だから、この面がみられるのは聖霊会の時ぐらいで、ほとんど年中倉の長持のなかにねむってはいる。 そしてこの面は明治末期に作られた新しいものではあるが、四天王寺にある国宝や重要文化財の建造物、仏像などをしのぐに値する美をもった面であり舞である。  蘇莫者の曲は、古代中国から伝えられた舞楽の曲の一つであり、昔から諸説があるが、新井白石はいまの西域、つまりサマルカンド地方の舞で、 またの名を西湖輝脱舞(せいここたつまい)というと書いている。また近年京大の那波利貞博士らの研究によっても、漢、唐、宋の時代に珍重された舞で、 シカやシシなどのハク製を頭からすっぽりかむって舞ったエキゾチックな、情緒豊かなもので、これを輝脱舞といったとしている。  舞楽は洋の東西を問わず動物の姿で踊るものが多い。これは動物のもつ自由奔放な姿態の美しさに対する憧れを踊りに託して表現するもので、

幼児の踊るウサキのダンスから獅子の舞、さらにはバレー白鳥の湖にいたるまで、すべてこの輝脱舞の一群ということができる。  このような意味から「蘇莫者」という曲名が生まれたものといわれている。  ところで、四天王寺創建当時の大阪といえばおそらく外来文化の受け入れ場所で、四天王寺は文化の中心であったに違いない。 最盛期の唐からわが国にもたらされた仏教文化の一部として伎楽や雅楽が大いに消化されそのなかに、この「サマルもの」すなわち蘇莫者の曲や舞がただちに仏教音楽として とり入れられた。そしていつしか聖徳太子にちなむ伝統と結びついてしまった。この曲が四天王寺特有の舞として古来尊重されたこともこのような意味からであろう。  輝脱舞について詩情豊かなこんなエピソードがある。唐時代の大詩人杜甫の詩のなかに、杜甫が幼いころ、中国で麗名の高かった公孫大娘(こうそんたいろう)という舞姫の舞う 「剣器輝脱(けんきこたつ)」を見て大いに感嘆したことがうたわれている。この舞姫は当時一世を風びしたものらしく、画家の懐素という人がこの舞姿をみて、感得するところあり、 それ以来文字の草書が長足の進歩をしたと楽府雑録のなかに記されている。よほど巧みなダンサーだったのだろう。  日本も文化の国となった今日芸能が社会に与える影響ははなはだしいが、はたして公孫大娘の真似のできるような舞姫がいるだろうか。 総白痴化のお手伝いをしているばかりでなければ幸いである。   (大阪雅亮会代表理事・小野摂竜)
 
四天王寺
 約一三五〇年前(五九三年)に日本ではじめての寺として聖徳太子が建てた寺。 境内は約二百fもあり大小四十余の堂塔が建ち並んでいたが、戦災でほとんど焼け、いまでは六時堂、本坊、大寺の池(亀の池) 石舞台、金堂、太子殿、亀井堂、北引導鐘がある。紙本着色扇面法華経など国宝、重要文化財が多い。五重塔を再建中。