美の脇役 七
南禅寺境内の疎水 苔むした近代
この写真を見ただけでハハンと気のつく人はよほどこまめに京都を歩いた人である。ローマへの道は遠いといわれたがそのローマへの道にそう遺跡に一部かとも見間違える風景である。頼山陽が「人にあうて南禅寺を問うことをやめよ一帯の青松路迷わず」と詩をふ(賦)した禅寺の一隅にみられる風景だといえば、オヤと思う人が多いかもしれぬ。
まもなく疎水は風に散る桜の花弁をみなわの地で静かに流れる。その風情を愛する人はまだ多い。第二疎水は南禅寺から北へ、若王子(にゃくおうじ)を通り、鹿ケ谷の法然院のかたわらを流れていくが、その川端の道は花のころにはひとしお趣がある。西田幾多郎や和辻哲郎などの哲学者がしきりと随筆にのでてから「哲学ロード」という異名だえも頂戴してきた。東洋の詩心をたたえたマルキシスト河上肇の眠る地もそのかいわにである。疎水の青々とした琵琶湖の水はこのレンガづくりのガードの上を天井川のように、ゆうゆうと流れ来たり流れ去る。
疎水は今では京都の風物詩となったが、それはまた近代京都の誕生を物語る記念碑でもある。竣功したのは明治二十七年(一八九四)で、着工してから十数年にわたる長い困難な工事の連続だった。オランダ人のヨハネス・デレーケが「やめたほうがよい」と忠告したほどの工事であった。それを幕末「生野の変」に倒幕の血をわかせた北垣国道が二代目知事に着任して、古都の蘇生をつげる「文明開化」のしあげ仕事にえらんだのである。
この難工事をダイナマイトさえ英国から輸入せねばならぬ明治初年の日本で、工部大学を卒業するかしないかの青年技師田辺遡郎にまかせてやりとげさせた彼の太っ腹さはさすがに維新の風雲を生きぬいてきた人のものである。それだけに工事中、そんなことをすれば京の町は水びたしになるとさわがれ、尾にヒレがついて大阪
まで水禍にみまわれるという流言もとんで、ムシロ旗をおったてた反対デモがまきおこった。原子炉以上の危憂だったらしい。北垣知事は「コンドキタガキゴクドウ」(こん度来た餓鬼極道)なんて悪口されたものである。 しかし、そのおかげで、市内電車は京都の町を最初に走った、古い西陣の染織マニュファクチュアは資本主義の近代日本にみごとに生きぬくことができた。それだけではない。京都の「水の美味さ」は世界のどの都市にもまさるといわれる。すべてこの工事の余沢である。だがいまではその市電もそろそろ博物館入りするほどの時代物になってしまったし、水の味以外には疎水の恩恵を思いやる人もなくなった。さびついたインクラインとともにこのレンガづくりのガードも「文明開化」の遺跡になってしまっている。だが閑寂な古い禅寺の片隅にのこる苔むした「近代性」は古都の歴史をさぐる人の郷愁をさそる。
「花は盛りに月はくま(隅)なきをのみ見るものか--」という感懐をともなって--。
(一九六一年?月?日新聞切抜き記事より)
(成安女子短大教授・森竜吉)
南禅寺 京都市左京区南禅寺福地町にある。臨済宗南禅寺派本山。一二六四年(文永元年)亀山天皇が離宮を造営。一二九一年(正応四年)禅寺とした。のち五山に列した五山の上にも位した。多くの名僧を輩出したが、また、大方丈、小方丈、その障壁画などのすぐれた文化財にめぐまれ、「虎の子渡し」の名でよばれる枯山水の方丈前庭は京の名園の一つである。境内には付近を疎水が流れ、本文のガードやインクラインがあり、桜の名所にもかぞえられる。