美の脇役 四
法隆寺の築地べい 忘れられた文化財 
古風な築地べいが長々と続いた景観は、捨てがたい味わいのあるものである。京都や奈良の風情には寺々の築地べいに助長されているところが大きいと思う。京都御所で最初にうける強い印象も、築地べいの連続という点である。それにもかかわらず築地べいは、いつも軽くみられて、金堂とか五重塔などのように急いで修理してもらえない。それで木構造に土壁をはめた築地べいには、堂塔のような非常に古い違例がないのである。 築地べいは簡単な建築だけれども、敷地の周囲をめぐるので非常な量となり、建築費は意外なほど多額にのぼる。修理に手がまわりかねるのも経費がかさむのが最大の理由と言ってよい、明治このかた寺の経済が苦しくなったのと、れんがやコンクリートのような新建築材料による新様式のへいが流行したのにつれて、古風な築地べいは次第に影をひそめた。それとともに築地をつくる古来の技術もいつか大半忘れられてきたのである。 法隆寺を訪れる人々は、松並木をとおして見える南大門にひきつけられて、その左右に展開する築地べいを見のがしてしまうけれども、法隆寺に限ってそれまでが実は重要文化財に指定されているのである。それは現存す
る最も古式の遺構だからでもあるが、同時に築地べいの様式と技術とを後代まで伝えたいという意味もこめられている。しかし法隆寺の場合も例外ではなくて、西院の大垣およそ五百四十bにわたる部分の、土壁がはずれて倒れそうなのを支柱でようやく防ぎとめている現状だけれども、修理の方は長年けん案になったまま一向すすめられそうにない。(一九六一年?月?日新聞切抜き記事より)
(京大名誉教授・村田治郎)
◇法隆寺◇ 諸説はあるが、天智九年の火災以後三十年ないし四十年の間、つまり六七○年から七一○年の間に再建されたという。この西院の大垣(築地べいもしくは築垣)は再建当初は現在の位置ではなく、これは室町時代前後のものと推定されているが、内部をガラン洞にした築工技術は伝えられていない。写真の上の三つのカワラは元禄時代綱吉の生母の桂昌院が法隆寺へ多額の寄進をした時、それを記念して造られたもの。いずれにしろ築地べいのカワラはそれ自体のカワラはまずなくよせあつめのカワラだという。