美の脇役 三四
元興寺極楽坊禅室連子窓 全開の窓
さきごろ東京から人があって、いろいろ話をしているうちに、南都の坊さん達はいつ勉強するのだろう、という手きびしい話題がでた。 もっともその日は、私の寺でも一日中あちこちから電話がかかったり、訪ねてくる人があったりで席のあたたまる間もなかったのであるが、なるほど、 自分自身についていえば「勉強」というほどのことが、落ち着いて出来そうな今日このごろの環境でも心境でもありそうにない。 それに見まわしたところ、今日の南都の寺々では、好むと好まざるとにかかわらず、世間に対する窓は全開に近いようすである。その人の感慨は無理もあるまいと思われる。 さて、古い話であるが、奈良時代の名僧行基が、東大寺創建の際の勧進の功によって大僧正に補任されたとき、この寺に住んで三論の巨匠と仰がれた智光が、 これをそねんで文句をつけたという。もっとも、これは行基の弟子の書いた日本霊異記(りょういき)の中の話であるから、智光はたちまち罰をこうむって、 七日間怪しい熱病におかされ、その間に地獄見物までさせられるという話がついている。 それにしても、当時の社会事業家であり、勧進僧であった行基と、智光によって代表される南都のゆゆしき学僧達との間の、この大僧正補任をめぐっての消息が、 何となくうかがわれておもいろい話である。 ところで、その智光も晩年には三論の学僧から脱皮し、浄土曼陀羅を感得して、日本浄土六祖の第一祖にあげられることとなり、その伝統はながくつづいて、 この寺を南都においては異色ある庶民の寺とした。その智光の住んだ僧坊が今ここにある。北面の窓は狭く、きびしくその窓を通した光は人を瞑想と内省と、勉強に導く。そして、この写真の、思い切り開いた南面の窓は、その連子を通してこぼれこむ暖かい春の日ざしのように、世間を受け入れ、世間に対して開かれているように今の私には思われるのである。 (元興寺極楽坊住職・辻村泰円)
『元興寺極楽坊』 奈良市中院町にある真言律宗の僧坊。 元興寺は、蘇我馬子の発願により、飛鳥の地(奈良県高市郡明日香村)にたてられたものだが、奈良時代、現在地に移建された。
いらい興亡をかさね、現在のこされた同寺のおもかげは、その子院の一つこの極楽坊にだけのこされている。境内は民家の密集地帯にあって狭小だが、
国宝に指定され一億円近くの工費を掛けて解体修理された本堂と禅堂は有名。室町から江戸時代にかけての庶民信仰資料は、他に類を見ぬ貴重なものといわれる。