美の脇役 二七
平等院鳳凰堂天蓋
 久遠の大交響曲  

 京阪電車の宇治駅で下車すると、目のまえに宇治川の清流が心よくひびき、宇治橋にさしかかると左側に、朝日山が逆光の中から、紫の影となり、 川面に浮かんで美しく目を楽しませる。そして宇治茶やみやげものを売る店なみが尽きるところから、丹塗りの平等院の鮮かな建物が、浮き彫りのように眼前いっぱいにひろがる。 最初ここを訪れたのは、今から三十年前の夏の朝。まだセミの鳴きはじめない早朝のことだった。  以来、年にいくどとなく訪れた私だが、そのたびに、美しさと親しみが増していった。 そしてだれも妥協しない思い通りの写真をとりたいと念じながら昨年写真集の刊行にこぎつけえたよろこびは終生忘れえぬもので、その因縁としあわせをよろこんでい。 いたらぬ私の感じであるが、ここ鳳凰堂の建築、彫刻、絵画工芸品は、それぞれがシテ役であって、脇役というものがないのではないか。

 強いて脇役というならば、鳳凰堂を、今日までまもってくれた自然と風光とここをこよなく愛しつづけた人々の限りない愛情であろうと信じている。  静寂な本堂にひたって、静かに仰ぎ見る定朝の傑作といわれる丈六の金色まばゆい阿弥陀坐像の安らかな面持ちと姿。 「円満是空」の慈眼は平安の昔をしのばせ、歴史の流れを思い浮かばせ、観無量をしみじみ味わうのである。 その本尊の光背の先端をおおうようにした木造漆箔(しっぱく)のまるい天蓋。さらにこの天蓋をおおった方形の天蓋が、 天上から軽やかにつり下げられている。その金堂内陣のけんらんさ、精細な手法の宝相華唐草のすかし彫りは目をうばうほどの荘厳な美しさであり、 壁一面にかかげられた五十一体の飛天小像は、手に手に楽器をいただいていて、久遠の大交響曲をきかせてくれているようだ。本尊の前にたたずむだけで、 凡夫もたちどころに大指揮者になりえた感慨にひたれるのである。静かに目をとじ、合掌しばし。堂外には、やわらかな早春の日ざしが、あふれていた。  
(写真家・佐藤辰三)