D

いうにいえぬ色合い 将軍家から御所、寺院へ 

青磁鳳凰耳花生・銘万声     

  わが国には数多くの砧(きぬた)青磁花生(はないけ)が伝えられている。この「万声」と名づけられた花生は、その中の代表的名品である。おそらく南宋初期、浙江省竜泉窯で焼成され、平安末から鎌倉時代にかけて盛んになる日宋貿易の中で、わが国に将来されたものであろう。  徳川将軍家に伝えられたが、三代将軍家光が妹である東福門院(後水尾天皇の中宮)に贈り、東福門院の遺言によって、その孫にあたる山科の毘沙門堂初代門跡公弁法親王に贈られたものだという。  いうにいえぬ微妙に変化してやまない青磁釉(うわぐすり)の色合いが、深い精神美を求め始めた中世人の視覚と心をまずとらえ、ついで近世宮廷人の豊かな趣味性を満足させたのであろう。いわゆる「後水尾上皇のサロン」の人々のいとおしむような視線を集めていたに違いない。ちなみに「千声」と銘されている近衛家伝来の花生があり、それと双へきをうたわれてきたものである。もちろん毘沙門堂においても重宝中の重宝として大事に伝えていた。  ところがその毘沙門堂が、明治維新以後は零落の一途をたどる。かつては二千石の石高を誇り、寺域も十万坪だったのが、たちまち一万五千坪の寺域と山林が多少あるだけになってしまった。寺の維持そのものが困難になり、この状況を打開するため、昭和三年に寺宝の大々的な売り立てを行い、手にした五万円を信託銀行に五十年還付の条件で預けた。五十年後には立派に寺院の維持費ができるはずだった。が、時代は変わった。戦後のインフレの後では五万円など何の役にも立たない。  焦った毘沙門堂では、昭和二十三年ごろ「江戸茶碗・銘筒井筒」を手放して急場をしのいだようである。そして昭和三十三年ごろ、ついにこの「鳳凰耳花生・銘万声」も手放さざるをえなくなった。何人かのブローカーの手によってこの花生は大阪府和泉市の収集家久保惣太郎のもとに納められた。   現在この花生は、久保の寄付行為によって和泉市久保惣記念美術館に所蔵されているのである。

田中日佐夫 (成城大教授)
昭和六一年(一九八六)五月三一日 の新聞記事より