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強奪や焼亡の末残る 素晴らしい生命力の表現

山田寺仏頭     

  奈良公園に隣接する興福寺国宝館には、白鳳・天平時代以降の美術品の名作が数多く陳列されている。  なかでも最も印象深く、一度見れば忘れることもない名品の一つに、一b近い大きさの仏頭がある。首から下、そして頭頂部から左耳にかけて大きく欠損しているが、しかしこの生き生きとした生命力の表現は、なんと素晴らしいものであるか。  張りのある丸顔、悠揚迫らぬ髪際の線が頭部と顔部を区切り、十分に引き伸ばした眉(まゆ)と切れ長の目、形良い鼻とくちびるが釣り合いよくおさまっている。それでいながら不思議なほどみずみずしく、青春前期の香りを放っている。典型的な白鵬仏の頭部といえよう。  この仏頭は、もともと飛鳥の東の地に建てられていた山田寺の仏堂であった。欽明天皇十三年(六四一年)に造営が始められた山田寺は、その半ばにして発願者・蘇我倉山田石川麻呂の非業の死によって工事は一時中断されたかもしれない。しかし間もなく工事は再開され、天武天皇十四年(六八五年)には、石川麻呂の追福のために造られた講堂の本尊がかんせいした。この仏頭こそは、その山田寺講堂の本尊像の頭部だったのである。  この物像は五百年近い間、山田寺に安置されていた。ところが文治三年(一一八七年)、治承の南都焼亡による被害を復興しようとしていた興福寺堂衆たちが大挙して山田寺に押し掛け、この本尊と脇士(わきじ)を強奪して興福寺東金堂の本尊にしてしまったのである。  そしてまた二百余年、応永十八年(一四一一年)、五重塔への落雷によって東金堂も全焼、仏像も焼亡してしまった。ただ頭部だけはよく形をとどめていたために、新造の本尊の台座下に納入し、以後、人にも知られぬまま伝えられていた。  昭和十二年(一九三七年)、東金堂の解体修理が着手された一ヶ月目の十月三十日、この頭部は再び人々の目に触れたのである。  激動の歴史をくぐり抜けてきた仏頭の、まさに昭和の大発見であった。

田中日佐夫 (成城大教授)
昭和六一年(一九八六)四月一九日 の新聞記事より